ゆるクリMsaブログ

都内でゆるっとクリスチャンしてます。よろしくお願いします。

社会人として活きるクリスチャン、とは #14

社会人として活きるクリスチャン、とは

 

社会で生きる上で、くリスチャンとそうでない人でどのような違いがあるのだろう。

正直、社会生活を送るだけではそこまで違いがないのではないかと思う。

 

あ、今クリスチャン的思考した

と仕事中に思うことは少ない。

 

どちらかというと、

仕事に向かう姿勢や、

自分たちには拠り所があるという安心感、

たとえ仕事でミスをしても神様は見ていてくださると言うこと、

ここら辺のことから他人にも優しくできることだろうか。

 

クリスチャンだから、と言うアイデンティティーについて考えると意外と難しい。

日常生活でクリスチャンだから、と言うポイントがどう生きていくのか。

おそらく、ふとした時に違いが出てくるのだろう。

 

自分は一人ではない、自分を許してくれる存在がある、といった絶対的な感覚があるからこそ、前向きに生きていけるのだろうか。

とはいえ、クリスチャンでも鬱になる人はいるし、思い詰めてしまう人もいる。

 

些細な違いの積み重ね、がクリスチャンらしさになるもかもしれない。

 

⚪︎今日のヒトコト

食生活は日々の習慣。

ダイエットといって一定期間我慢をしても、元の食習慣に戻るときっと太る。

日々の行動の積み重ねが全てだと思う。

価値観を話すって、結構勇気入りますよね #13

価値観を話すって、結構勇気入りますよね。

 

知人とカフェに行った時、過去の恋愛観や人生の目的、今後のキャリアなど、幅広な話をした。

(たまたま隣の席には、おそらくよく見るユーチューバーがいて、びっくり!

動画アップしてくださいね!!!笑)

 

自分の中では時々ノートに書いたり、仕事をしながら考えたりはしていましたが、改めて

他人に言う機会はなかったし、積極的には作ってこなかった。

(他の人の話を聞くことはあったが、あくまで聞くだけ。話すことはあまりなかった。)

 

どんな人と付き合ってきたのか、どのような信仰生活を過ごしてきたのか、今後の仕事や生活について。

紙に書くことは思考の整理になる。

言葉することで、自分に言い聞かせる意味もあり、今後の継続につながる。

 

信仰生活は一人では継続できない。

互いに支え合い、励まし合い、そして生きていく。

この関係が素敵だと改めて実感した。

 

少し短めですが、ここまで。

 

⚪︎今日のヒトコト

栗山監督の本を読んでます。

「。」をつける。

日常生活から意識します。

教会に通うと、住む場所まで制限される? #12

教会に通うと、住む場所まで制限される?

 

今日、道を歩いていたらふと思いました。

どういうことかと申しますと、仮の話です。

 

私が横浜出身で、実家も横浜にあり、横浜にある教会に幼少期から通っていたとします。

横浜の教会で育ち、母教会は横浜の教会。

ところがある日、ふと引っ越したいとなった場合、考えることはもちろんどこに住むのか。

東京に住むのか、埼玉にするのか、それとも実家からも近い横浜周辺にするのか。

これにより自分の生活圏が変わるのはもちろん、通う教会も変わる可能性がある。

(教会に通わなくなるという選択肢はないものとする)

 

横浜外から、母教会である横浜の教会に通う可能性、新たな教会探しの旅にでる可能性

横浜内に残り母教会に通い続ける可能性、引っ越しを機に新たな教会探しの旅にでる可能性

この4パターンのうちのどれかになるだろう。

 

やはり教会は同じ教会に通い続けるのが良いのか、

新たな刺激を求めて違う教会に行くのも善か。。。

悩みどころである。

 

今まで考えもしなかったが、住む場所の検討材料に教会が加わるなんて、思いもしなかった。

そこまでも教会に通うことが自分の中で重要なことになっていたなんて。。。

 

と自分の価値観を再確認した歩きタイムでした。

 

自分の価値観の再確認、再認識は時々行いたい。

感情の棚卸しも合わせて行い、自己認識度を高めたい。

 

今日は軽めにこのくらいで。

 

⚪︎今日のヒトコト

免許失効すると、めんどくさいですね。。

負債って、あっちゃダメなの? #11

負債って、あっちゃダメなの?

 

「負債総額⚫︎0億円!」と、ドラマ内のニュースでザワついていた。

私は仕事柄、比較的大きな単位の数字を見ることが多い。

そんな私からすると、「負債総額⚫︎0億円!」、だから何?という感じである。

 

負債とは、誰かに返さないといけないお金である。

他の人から借りているから、借金、ともいう。

(負債とは借金だけではないが、一般的なイメージとしては借入金が多いと思う)

 

「⚫︎0億円の負債」だけなら、それがどのくらいの規模なのかよくわからない。

売上が100億円あっての負債⚫︎0億円、なのか、

売上高3億円の会社にとっての負債⚫︎億円なのかによっても、インパクトはまるで異なる。

逆にそれだけ借りれることの方がすごい。

 

また、負債がいくらあっても、それ以上の現預金を保有していれば、負債がそこまでネガティブに働くことはないのではないか。だって、その現預金でいつでも返済できるんだから。

 

キリスト教とは全く関係ない話になってしまいましたが、キリスト教って確か利息とっちゃダメだし、とった利息は返せって書いてあったよね。

例えば40億円を年間1%で借りたら、年間の利息額って4千万円なわけですよ(単位の表記バラバラですみません、ここでは分かり易さ優先しました。仕事じゃないし)。

ある日いきなり、「おい銀行、今まで顧客からもらってきた利息返せ!」って言われても、困るよね。。。

誰も返せないよね、もし本当にそんなことするなら、その周辺地域の経済終わるよね!!!

資金融通機能がなくなり、企業間の貧富の差が激しくなる。

 

資本主義だからこその資金融通という役割。それが銀行というと、ものすごく聞こえは良い。

 

一方、自分が社会の中で果たしている役割はなんだろうか。

教会では、地の塩なのだから、世の光なのだ、と聞く。

ん、つまり?

私たちの存在自体に意味があると言ってもらえるのはありがたい。

しかし、ただあるだけ、ただいるだけ、で良いわけではないと思う。

私たちが存在し、何かしらの行動や働きかけをすることで、塩加減、光加減がいい塩梅になっていく。

つまり、クリスチャンとしてのアイデンティティをどのように活かせば良いのかが

よくわからない。

日々の仕事ぶりは。。。

毎日頑張って働いているものの、くだらないミスや注意不足が多い。

働く姿勢を見られて、クリスチャンってそんなもんか、と言われかねないような

働きになってしまっている。

 

このままではよくない。

 

今の仕事が向いていないんだ、転職しよ。

という考えて転職をする周囲の人もいるが、それは違うと思う。

自分のできないことを諦め、できることを探していくのは、、、

自分が成長することを諦めていると思うし、何より信仰を頑張らなくて良い理由にしているようにしか聞こえない。

 

やや激しい論調にはなったが、詰まるところクリスチャンとしての役割を自認できていないのである。

が日々探し考え続け、門をたたき続けよう。

 

⚪︎今日のヒトコト

最近起床時寒くて布団から出られない。

暖房つけるか。。。

「きょういく」と「きょうよう」は、生きる上で必要 #10

「きょういく」と「きょうよう」は、生きる上で必要

 

この話は、最近教会で聞いた話。

正直、書きたくて書きたくて、けど出し惜しみしたくて。

結局、書くことにしました。

そのようなエピソード、皆様にもありますか?

あればぜひ、コメント欄で教えてください。

 

それでは、お楽しみください。

 

最近、教会にいるご高齢の先達クリスチャンから言われた言葉があります。

「年寄りには、"きょういく"と"きょうよう"が必要なんだよ。

今日、行くところ(きょういくところ)と、今日の用事(きょうようじ)がね。

これが生きる理由になるんだよ」と。

 

なるほど、これは面白い。

"きょういく"と"きょうよう"。

"きょういく"→今日行くところ、つまりはコミュニティー

"きょうよう"→今日用事がある、つまり目的

一言で表すと、コミュニティーと目的こそ、生きる意味。

 

とのこと。

 

しかし、これはご高齢の方に限らず、若者にも大切なことであると思う。

今はSNSが発達し、一人でも時間を潰せるようになってしまった。

だからこそ、誰かと関わる時間と、時間潰しのように時間を使うのではなく人とのコミュニケーションをとる用事が若者にも重要である。

 

ある方がカルト宗教にハマる人が多くなっている現状について、

「孤独な人が多いんだよね、寂しい人が多いんだよ」

と言っていた。

まさにこれだと思う。

 

人は一人では生きていけないのに、ビジネスでは可処分時間の奪い合いが起きている。

困ったことに、一人で完結してしまう時間の使い方である。

これは文明の利器であると同時に、人間らしさの欠如が起きているのではないか。

また最近はモノ消費よりコト消費、とも言われるようになりつつある。

このコトは、一人でするより、二人で、三人で行うコトだろう。

 

人の消費行動も、一人時間に飽きてきたのかもしれない。

だからこそ、私は日常から、みんなで過ごす時間を最大限に楽しむ為の工夫をしている。

具体的には、

・普段の食事を質素にすることで、誰かとの食事を人一倍楽しめる。

・日常であった出来事(楽しいことも、悲しかったことも)を、誰かとの会話で話せるネタ帳だと捉え、今日あったことをどうやって人に伝えようかな、と考えている。日々の生活をネタ帳にしている。

可能な限り、筋トレをして、常に進化し、アップデートされた自分でいる

などなど。

 

これからも、誰かと過ごす時間を楽しみたい。

ネットフリックスやインスタも楽しいけれど、目の前の体験を大切にしたい。

 

⚪︎今日のヒトコト

とは言いつつ、私、恋人いないんです。

いつも遊んでもらうのは、先輩。。。

結婚とか、そーゆーことではなく、一緒に時間を過ごして寄り添い合う相手が欲しい

(※依存ではなく。詳しくは#9も見てください)

 

依存って、良い損? #9

依存って、良い損?

 

というタイトルの記事を保存一時保存していましたが、

消えていました。

という言い訳です。

最近投稿できておらず、、、今日からまた投稿します。

 

実は私、依存されています。

生きるの疲れた、もう全部やめたい、などなど、このようなメッセージをもらうことが多くなりました。

なぜ私に依存するのか、かつ、なかなかベビーな内容。

 

私自身はどうなのかと申しますと、過去誰かに依存せずに生きていたと思う。

(依存していたら。。。ごめんなさい)

誰か、何か、に依存せずに生きてきたと思う私に依存する人。

どのように対応すれば良いのかわからない。

なぜそんなにも生きることが辛いのか、なぜそんなにネガティブに考えるのか、なぜそんなに気にしーなのか、なぜそんなに繊細なのか。。。

わからないこと、理解できないことが多すぎる。

まるで異生物、新人類とコミュニケーションをとっているようだ。

必死に生きていることは伝わるのだが、、、少し引いたところから見てしまう自分がいることも事実。

 

自分とは全く異なる感覚を持つ相手と話すのは、本当の異文化交流である。

 

なぜ神様は私とこの人を交わらせたのか。

 

相手には、「その考えが全くわからないから、薄っぺらい共感をする気はない。そうだよね、辛いよね、と慰めて欲しいなら、他の人に当たってくれ」ということも伝えている。

これは私なりの配慮であり、相手にとって都合の良い依存先になりたくないがための予防線である。

 

とは言いつつ、私が話相手になることで、相手が生きてくれるならそれでも良い。

一人の命を救えるというと大袈裟だが、私の対応が雑で仮に相手に死なれたら困る。

 

依存する、依存される、関係は、距離が近すぎることから起きるのか。

心を許され過ぎているからなのか。

私は基本、人との距離は近い方で、自分でも少々バグっていると思う節がある。

だからこそ、

頼る、と依存する、の違いを自分の中で持つべきなのだと思う。

相手に強要はしないものの、その人との関係を俯瞰してみたときに

今は頼る、頼られてるな

や、

これはまずい、依存寄りだぞ

など、わかるようになる必要がある。

 

そのように考えると、人生の中で一度、依存されたり、沼られたりすることも悪くないのかもしれない。

勉強料だと思えば、依存されるものいっときの状況であると割り切れる。

同じ状況がずっと続くことはないと思う。

だからこそ、依存は良い損、だと思ってみよう。

 

 

やっと苦労が報われたね、なぜ? #8

やっと苦労が報われたね。

今ネットフリックスで見ている韓国ドラマでの一言。

 

やっと苦労が報われた。

きっと今までとてつもないほどの努力や我慢をしてきたのだろう(ドラマ内でも仕事を掛け持ちして生活している描写があった)。

 

ここでふと、報われる努力と報われない努力の違いはなんだろうと考える。

 

クリスチャン的には、神様に依り頼んでいるかどうか、その人に神様が備えた道、が模範解答かもしれない。

ただ、これではあまりにも他責すぎるのではないかと思う。

それに信仰が報われるポイントであれば、クリスチャンは全員報われるはずである。

 

報われる人と、そうでない人。。。

まず、報われ方として、金銭面とメンタル面があると思う。

ドラマ内ではわかりやすく金銭面で報われていたが、、心が報われるとは、

目から鱗が落ちる的な、物事の捉え方が変わり、心にあった詰まりがなくなったり、気持ちが楽になることと定義したい。

 

(自戒の念も込め)

・祈る、信じる

・やれることをやる

・小さなことに、こだわって喜びを見つける(ホームラン級の変化を期待しない)

 

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そうは言っても、心の持ちようはあると思います。

運が良い人は満足度の高い日々を過ごすし、そうでない人はそのような生活をしている気がします。

 

神様に守られている、って前提で、と言いますが、その頭で過ごしていたら、

安心して生活できると思うんです。

常に「守られてる」から、「あ、今神様が守ってくれている」とか「さっきのプレゼン中、神様が守ってくれてたらか、緊張したけどなんとかやり遂げられたな」とか、考えるようになると思います。

その積み重ねで、ものの捉え方が「神様に感謝」がデフォ設定の頭になる気がします。

「神様探し」とでも言いますか。

 

神様がいつでも、どこでも、私たちのそばにいてくれて、守ってくれている。

それを感じることができるかどうか、これが人によって異なるし、信仰にも繋がってくる。

 

だから、「神様どーこだ」って、神様とかくれんぼしているように生活すれば、神様と仲良くなれる。

そのうち、信仰面で神様をいつも見つめ、日々に感謝できるようになり、「報われた」と感じやすくなるのかな。

 

冒頭は「物理的な」報われから、「目には見えない、満足度」のような報われに話は変わりましたが、クリスチャンである以上は、後者を大切にしていきたい。

 

神様とかくれんぼ。

これは人生を通して遊べるゲーム。

一日一回は、「あ、神様みっけ!」と神様に勝てれば、きっと素敵な一日を過ごせたはず。

 

⚪︎今日のヒトコト

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